「日本資本主義の父」と呼ばれた渋沢栄一さん。
日本の発展にはなくてはならない存在だった渋沢栄一さん。
でも、視点を私生活に向けてみると以外な一面も見えてきます。
渋沢栄一さんは無類の女好きだったというのです。
調べると正妻が2人に妾もいたという。
渋沢栄一の女性問題について調べてみました。
渋沢栄一は女好き
渋沢栄一さんの生きた時代は、天保、弘化、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応、そして明治、大正、昭和と多くの元号の中を生きてきた人です。
その間には
ペリーの黒船来航があり、桜田門外の変があった。大政奉還があり、戊辰戦争があった。廃藩置県があり、地租改正があった。西南戦争があり、大日本帝国憲法の発布があった。日清、日露の戦争があり、大逆事件があった。日韓併合があり、第一次世界大戦があった。ロシア革命があり、関東大震災があった。昭和恐慌があり、満州事変があった。
この激動の時代に生きて、日本の経済界に改革を起こした歴史的人物であるというのは、表向きの顔なんです。
ひとたび、渋沢栄一さんの私生活に目を向けると「“明眸皓歯”(美女)には勝てない」と周囲に公言することをはばからない部類の女好きだったということです。
渋沢栄一さんの裏の顔がすごすぎて、なかなかお札の肖像画に採用されなかったという事実がすべてを物語っています。
渋沢栄一の妻
渋沢栄一さんには2人の正妻がいました。
先妻、渋沢千代
渋沢栄一さんが18歳の時に、17歳の千代さんと結婚して2男3女をもうけました。
渋沢栄一さんの父親の姉の娘だった千代さんは、渋沢栄一さんから見ればいとこ同士だったんですね。
また、千代さんの兄の惇忠さんが開いた「尾高塾」で学んでいた渋沢栄一さんは、千代さんとは親しくしていたようです。
千代さんは、気丈な性格で多忙な渋沢栄一にかわり家を守ったそうです。
渋沢栄一さんは、そんな千代さんをこよなく愛していたそうです。
千代さんは、42歳の時にコレラにかかりこの世をさりました。
後妻、渋沢兼子
渋沢栄一さんは、千代さんが無くなった翌年に、伊藤八兵衛という元大富豪の次女の兼子さんと再婚します。
渋沢栄一さんと兼子さんの間には、2男2女が授かりました。
2人の馴れ初めは、実家が没落した兼子さんが芸者の仕事を探しているところで、渋沢栄一さんと出会ったそうです。
兼子さんは妾を嫌い、正妻として受け入れてもらうことになりました。
兼子さんが訪れた渋沢栄一さんの邸宅は、かつて富豪時代に生活した兼子の実家の屋敷だったそうで、2人の縁も不思議なものだったようです。
渋沢栄一の妾
渋沢栄一さんには、妾が3人いたと言われています。
渋沢栄一さんが生きた時代では
妾がいるということは、男性として経済的に非常に豊かであるというステイタスで、逆に富豪でも妾を持っていないと、世間の信用が持てなかったとも言います。
という時代だったようです。
しかも、妾も同居していたと言うから驚きですよね。
当時の渋沢家では、妻妾同居のうえに嫡子、庶子合わせて20人はいたと言われています。
渋沢栄一さんの最後の子供は、渋沢栄一さん68歳の時に妾さんともうけたというのもすごい逸話ですよね。
渋沢栄一の女性問題
渋沢栄一さんの最後の子供は、68歳の時にお妾さんと出来た子供とされていますが、80代のときにも子供をもうけたという話も出ています。
渋沢栄一さん子供は非嫡子も入れると50人はいると言われています。
渋沢栄一さんには、お妾さんの他に愛人もいたそうなんです。
中には、渋沢栄一さんの財産狙いで非嫡子と主張している人もいたとかいないとか。
渋沢栄一さんの正式な相続権を持つ嫡子11人は、渋沢同族会というものを作り渋沢栄一の財産を管理するようになったようです。
非嫡子は認めないという意思表示みたいなものですね。
渋沢栄一は女好きのまとめ
渋沢栄一は女好きで妻の他に妾もいたことについて調べました。
- 渋沢栄一さんには、歴史に名を残す表の顔と部類の女性好きという裏の顔があった。
- 正妻は2名、妾は3名、その他愛人と数多くの浮き名を残しています。
- 嫡子11人に、非嫡子も40人くらいはいたようです。
- 嫡子11人は、渋沢同族会を起こし、莫大な財産を非嫡子から守ろうとした。
渋沢栄一さんは、表の顔でも裏の顔でも歴史に残る偉業を成し遂げたと言ったほうが適切かもしれないですね。