吉永小百合の実家は?家族(父親・母親、兄弟)は?

吉永小百合
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吉永小百合さんと言えば、知らない人はいないくらい有名な大女優です。

吉永小百合さんには、サユリストと呼ばれる熱狂的なファンが居てファンの年齢層も幅広いです。

そんな吉永小百合さんはどんな生い立ちで大女優まで上り詰めたのか気になりませんか?

そこで、吉永小百合さんの実家や家族など生い立ちの秘密を探ってみました。

実家の兄弟や家族構成は?

まず最初に、吉永小百合さんの家族構成について確認しましょう。

吉永小百合さんの家族構成は

  • 父親:吉永芳之(享年79歳)
  • 母親:吉永和枝(享年90歳)
  • 吉永小百合

の5人家族で、子供は全て女性の3姉妹という構成です。

吉永小百合さんのお父さんの吉永芳之さんは、4人の女性に囲まれて大変だったんでしょうか?

父親の名前や職業は?

吉永小百合さんの父親は、鹿児島県出身の「吉永芳之(よしなが よしゆき)」さんです。

吉永小百合さんの父親は、戦前のエリート階級出の東大法学部卒で会社員や外務省の嘱託などを経験した後に、映画関係の出版社を起こしました。

父親は、出版社の仕事を通じて映画評論家の双葉十三郎氏や飯島正さんらと交友があったと言います。

吉永小百合さんの芸能界デビューに影響があったとしてもおかしくないですね。

父親の仕事は順風満帆ではなかった

実は、吉永小百合さんの父親の吉永芳之が起こした出版社の仕事も順調だっとは言えなかったようです。

そのために毎日の食事にも困る上に、借金の取り立てや税務署の差し押さえと、かなり悲惨な状況で育ったようです。

吉永小百合さんは、11歳でラジオデビューしましたが、小百合さんの給料で家計を支える形になったんだそうです。

そのために、吉永小百合さんは芸能生活を楽しんでいると言うよりは、働かさせられているという意識があったそうです。

渡哲也さんとの結婚を拒んだのは父親

先日他界された俳優の渡哲也さんと吉永小百合さんは、1996年の映画「愛と死の記録」で共演してから急接近しました。

当時渡哲也さんが25歳で吉永小百合さんは22歳でした。

映画「愛と死の記録」で恋人役を演じた2人の姿は「誰から見ても相思相愛」に見えたそうです。

そんな、2人の仲を吉永小百合さんの父親の「吉永芳之」さんは、断固結婚を反対したそうです。

結婚は実らなかったものの、その後お互いに別の相手と結婚した後も共演の際には息の合う姿が見られたそうです。

父親の最後は?

吉永小百合さんの父親は、1989年に母親と一緒にレストランで食事中にステーキを喉につまらせて脳死状態になりました。

「詰まらせた時に、誰かが(背中を)たたいていたら、出せた。それまではみんな、心臓発作だろうと思って何もしなかった」

https://news.yahoo.co.jp/articles/3043e376ef80dbbac447acc02b9a529a512b3848

医者から延命治療の提案があったときに、子どもたちは「器官を切開して呼吸を続けさせる」ことが可愛そうと思い同意しなかったんです。

でも、その場にいた母親は「少しでも一緒にいたい」と願い延命治療を受け入れたんです。

吉永小百合さんの父親は、延命治療から3ヶ月後に世を去ったそうです。

母親の名前は?

吉永小百合さんの母親について書きましょう。

吉永小百合さんの母親は、「吉永和枝(よしなが かずえ)」さんといって父親と同じ戦前のエリート階級出身です。

母親の母方の祖父の川田友之さんは、出版社「大観社」という会社を経営していました。

母親の母方の祖母は川田泰代さんは、婦人画報の編集長をされていました。

吉永小百合さんの家系は、出版界と深くつながっていたわけですね。

悲惨だった母親の幼少期

吉永小百合さんの母親の吉永和枝さんは、7人兄弟の2番めの長女でした。

和枝さんは3歳から6歳までの3年ほど、祖父母が住む兵庫県播磨の山寺に、兄弟姉妹の中でたった一人預けられたんです。

和枝さんの祖父は僧侶だったんですが、夜の食事時には食事をしながら何時間もお酒を飲んでいる時に祖母は1段下がった板の間に座布団すらない状態で粗末な食事を取りながら祖父に料理を届けるという、今の時代ではあり得ない暮らしだったそうです。

祖母は、和枝さんを寝かしつける時に枕元で

「和枝よ嫁にいかんとうれ、女は嫁いだら苦労するだけやからなぁ、おばあちゃんのようになぁ」

とつぶやいていたそうです。

和枝さんが6歳で東京に呼び戻された時には、和枝さんの父親の川田友之さんは東京で財を成して、洋風の生活をしていたそうです。

東京に戻った和枝さんは、昔ながらのしつけを祖父母から受けていたせいで、川田家の洋風な生活に馴染めず、自由に育った兄弟とも馴染めなかったそうです。

小百合の名付けの理由

吉永小百合さんの「小百合」という名前は、母親の和枝さんが

作家になりたかった和枝さんが、小百合さんのために作った短歌「戦いのさなかに生(あ)れて小百合の崇き気負いを持ちて生き抜け」(戦争の中で生まれたけれど、ユリの花のように誇り高く生きていってほしい)を作ったんです。

その中に使われた「小百合」(ユリの花を褒め称える時に使う言葉)を、娘の名前に付けたそうです。

和枝さんは、吉永小百合さんが女優として有名になった頃には、折が合わなかった川田家とは疎遠になっていたそうです。

母親の最後は

吉永小百合さんの母親は、86歳のときにがんが見つかりました。

吉永小百合さんら子どもたちが手術を受けるように説得しましたが、母親は「絶対に手術は受けない」と拒んだそうです。

2005年に90歳で吉永小百合さんの母親が他界するまで、家族で母親の介護が続いたそうです。

90歳の誕生日では、母親はシャンソンを歌ったりして上機嫌で過ごし、「病院に入るわ」と治療を受け入れて、2週間後に「お父様が待っているから」と言って息を引き取ったそうです。

吉永小百合の子供時代は?

いよいよ、吉永小百合さんの子供時代にスポットを当ててみます。

吉永小百合さんの実家は、父親の出版社の経営が順風満帆ではなかったようで、母親がピアノ教師の仕事で家計を支えていた時代も有ったようです。

吉永小百合さんは、子供時代の両親の苦労する姿も見て育ったのが、女優としての演技の幅を広げたという見方もできます。

吉永小百合さんの子供時代と生い立ちはこれでわかりました。

実家の場所は?

吉永小百合さんの実家の場所について言及してみましょう。

吉永小百合さんが生まれ育ったのは、

(旧)渋谷区代々木西原町

(現)渋谷区西原

吉永小百合さんが、子供の頃は今と違って緑豊かで自然に満ちた町並みだったそうです。

兄弟は?

吉永小百合さんの姉妹に話を変えましょう。

吉永小百合さんには、5歳年上の姉がいます。

吉永小百合さんの姉は、東京教育大学(現在の筑波大学)出身で、東京都庁に勤務されていたそうです。

当時は東京に有った東京教育大学(現在の筑波大学)出身というお姉さんは、頭が良かったんですね。

吉永小百合さんは、早稲田大学の夜間部出身でしたね。

妹の年齢は?

吉永小百合さんの妹は、2歳年下になります。

妹さんは、有名大学を出て教育関係の仕事をされたようです。

吉永小百合さんの実家の家族は皆優秀だったようですね。

まとめ

吉永小百合さんの実家と家族について調べてみました。

  • 父親は、出版関係の会社を起こして経営していました。
  • 母方の祖父母も、出版関係に係わっていました。
  • 母親は家計を助けるために、ピアノ教師をしていました。
  • 姉は、一流大学を出て都庁に務めていました。
  • 妹は、有名大学を出て教育関係の仕事をしていました。

吉永小百合さんは、立派な家系の一員として育ちながら、女優として成功の道を歩まれたんですね。

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