渡哲也さんと言えば団塊の世代の中ではヒーローみたいでした。
吉永小百合さんも、団塊の世代にとっては永遠のマドンナ。
そんな2人は、若い頃に共演した映画仲が良くなり、お互いに結婚まで意識したそうです。
でも実際に結婚したのは、2人共別の相手でした。
そんな、吉永小百合さんと渡哲也さんの出会いから恋人、そして破局までの流れを振り返ってみました。
2人はの出会いと関係は?
吉永小百合さんと渡哲也さんは、1966年の映画「愛と死の記録」で恋人役で共演しました。
当時は、吉永小百合さんが22歳で渡哲也さんは25歳という若さです。
縁とは不思議なもので、映画「愛と死の記録」には前作があり「愛と死をみつめて」の第2弾であり、前作同様に吉永小百合さんと浜田光夫さんとの共演を引き継ぐ予定だったんです。
ところが、浜田光夫さんが目を大怪我してしまい、渡哲也さんが起用されたんです。
このことがなければ、吉永小百合さんと渡哲也さんとの出会いは無かったんですね。
この映画に出演するまでの渡哲也さんは、アクションが専門の俳優さんだったんですが、美人女優として通っていた吉永小百合さんとラブシーンを演じることになり、心が惹かれていったんでしょうね。
共演した吉永小百合さんも、渡哲也さんが空手有段者でアクションが得意というのは新鮮に映ったのかもしれませんね。
しかも、渡哲也さんは肉体派のイケメン俳優でしたから、清純派の吉永小百合さんは一気に虜になっちゃったのかもしれないです。
そんなことで、吉永小百合さんは映画の撮影中に、手作りの座布団を渡哲也さんに渡すなど2人の関係は急速に深まっていったようです。
2人は結婚を意識した?
映画「愛と死の記録」の撮影スタッフも「誰から見ても相思相愛」というように距離が縮まりました。
映画の撮影が終了しても、2人の関係は順調に進みました。
1968年に入って、渡哲也さんが仲間内には「うちのカミさん」と吉永小百合さんとの関係を公言するようになっていました。
このころは、吉永小百合さんと渡哲也さんとの交際は周知の事実となっていました。
1969年に入って、真剣に結婚を意識した2人です。
渡哲也さんが吉永小百合さんを紹介した際に、渡哲也さんの両親は吉永小百合さんには「芸能界を引退して専業主婦になる」ことを希望したと言われています。
そのことが原因で2人は破局に向かうことになりました。
2人の結婚に猛反対したのは吉永芳之
当時の吉永小百合さんは両親は、吉永小百合さんが女優でいることが大黒柱として家族を支えていたことで、芸能界引退などはありえないことだったようです。
吉永小百合さんのマネージャーを兼ねていた、父親の吉永芳之さんは猛反対。
「2人の交際は構わないが結婚は絶対に駄目!」
さらに、吉永小百合さんの母親も
「結婚したら相手を絶対に許さない!」
とこちらも猛反対だったんです。
吉永小百合さんは、必死に両親を説得したものの両親の気持ちは変わらず
両親を説得できなかったんです。
だから(渡と)直接会って、「あなたとは結婚できません」と伝えました。
涙が止まりませんでした。
それで別れたんです。
結局、吉永小百合さんは渡哲也さんよりも両親を選んだために「破局」になっちゃったんですね。
今の時代だったら、両親が納得しようがしまいが、本人同士の気持ちが優先されるのに古い時代だったんですね。
2人のその後は
吉永小百合さんと渡哲也さんは破局の後、別の方と結婚しました。
- 吉永小百合さんは、1973年にフジテレビのディレクターの岡田太郎さんと結婚。
- 渡哲也さんは、1971年に青山学院大学の同級生の「俊子」さんという一般女性と結婚。
吉永小百合さんと渡哲也さんは、お互いに落ち度があって破局した理由ではなかったので、渡哲也さんの結婚を知った吉永小百合さんは「悔いがある」と泣き崩れたそうです。
本当に渡哲也さんのことが好きだったんですね。
その後も、吉永小百合さんと渡哲也さんは撮影で共演する機会もありましたが、大人の付き合いで和気あいあいとした様子は見られましたが、よりを戻そうと言ったことは無かったそうです。
まとめ
吉永小百合さんと渡哲也さんの、出会いから恋人そして破局までの流れを振り返ってみました。
映画での共演で、お互いを意識して関係が深まっていき恋人関係に発展した2人は、やがて結婚を意識するまでになりました。
ところが、渡哲也さんの両親が吉永小百合さんに「芸能界引退をして専業主婦」を望んだことから、吉永小百合さんの両親の猛反対を受け「破局」に至りました。
その後2人は別々の相手と結婚しましたが、撮影現場で一緒になると息の合った演技を見せていました。
出会ったのが今の時代だったら、2人は結婚できたかもしれないと思うと、少し悲しいですね。