昭和の偉大な作曲家の筒美京平さんが亡くなられました。
偉大な作曲家を偲ぶとともに、筒美京平さんの軌跡を追ってみました。
天才への道
筒美京平さん(享年80歳)は昭和を代表する偉大な作曲家です。
世に送り出した楽曲は2000曲を超え、数多くのヒット曲を生み出さいた天才とも言える作曲家でした。
筒美京平さんとは
- 本名:渡辺 栄吉
- 生年月日:1940年5月28日
- 出身:東京都新宿区
- 職業:作曲家 編曲家
- 学歴:青山学院大学経済学部卒業
- 所属:筒美音楽事務所
筒美京平さんは、幼稚園時代からピアノに慣れ親しんでクラシックのピアニストを目指したそうです。
大学時代には、ジャズに夢中になり洋楽に慣れ親しんでいました。
天才への道
大学卒業後に現在のユニバーサル・ミュージック(旧日本グラモフォン)に入社して、洋楽を担当しました。
ユニバーサル・ミュージック時代に、沢山のヒット曲に触れる中でヒットする曲という感覚を養っていったそうです。
また、大学自裁の先輩の作詞家の橋本淳さんや作曲家のすぎやまこういちさんとの出会いで、作曲を始めることになりました。
筒美京平さんは、1967年に橋本淳の作詞で筒美京平が作曲して、ヴィレッジ・シンガーズに「バラ色の雲」を楽曲提供しました。
この曲が大ヒットしたことで、作曲家としての評価を得ました。
その後は、グループサウンズから始まり、少年隊やTOKIOなど現在も活躍中のアイドルにも楽曲提供してきました。
筒美京平さんの曲でヒットチャート5位以内の楽曲は100曲を超えるほどの、偉大なヒットソングメーカーになっていきました。
筒美京平の謎
筒美京平さんという名前には由来がありました。
筒美京平さんの祖父が「鼓(つづみ)が平らに響くという意味から『鼓 響平(つづみきょうへい)』という名前が良い」と考えてくれたそうです。
作曲家には適切な名付けですよね。
その上で、漢字の画数が少なく縁起の良い左右対称の当て字にして「筒美京平」としたそうです。
筒美京平さんは、作曲家という立場は「裏方である」と考えていて、ほとんど人前に出ることがなかったそうです。
そのせいで、一時期「実在しないのでは?」という噂まで流れたそうです。
代表作やヒット作は?
筒美京平さんが如何に天才であったかという
1971、1972、1973、1975、1976、1981、1982、1983、1985、1987年に日本の作曲家別レコード売り上げで年間1位を記録しています。
数々のヒット曲を生む
筒美京平さんがどういう曲を作ってきたのかについて振り返ってみましょう。
1970年代
- 尾崎紀世彦『また逢う日まで』
- 堺正章『さらば恋人』
- 平山三紀『真夏の出来事』
- 南沙織『17歳』
- 野口五郎『青いリンゴ』
- 欧陽菲菲『雨のエアポート』
他にも西城秀樹、麻丘めぐみ、小林麻美や岡崎友紀にも提供しました。
その後も
- 郷ひろみの『よろしく哀愁』と野口五郎の『甘い生活』が共にヒットチャートの1位
- 岩崎宏美の『二重奏』『ロマンス』『センチメンタル』
- 大橋純子の『たそがれマイ・ラブ』
とたて続きにヒット曲を量産しました。
1980年代
- 田原俊彦
- 近藤真彦
- 稲垣潤一
- CCB
- 小泉今日子
- 少年隊
- 「サザエさんのテーマ曲」
と、ジャンルを問わずに楽曲提供しているのが凄いです。
その後も、数々のヒット曲を生み出し続けている筒美京平さんは、天才作曲家と言えます。
まとめ
筒美京平が天才と言われる理由について調べました。
- この世に出した楽曲は2000曲を超える。
- ヒットチャート5位以内に入った曲は100曲を超える。
- 長年に渡り、日本の作曲家別レコード売り上げで年間1位をとっている。
筒美京平さんは、昭和が生んだ天才作曲家と言えます。
誰もが一度は聞いたことがある曲を生み出した、筒美京平さんを失ったことが悲しいです。